福岡アートヒストリー 1975-2005 概略2005年12月02日 16:03

福岡アートヒストリー 1975-2005 概略

■1975-1980年頃:アーティストによる自主企画展

 博多駅に新幹線が開通した、1975年。この前後に天神地区に新しい商業ビルが次々とオープンし、情報誌が創刊され、市内電車廃止・地下鉄計画が出されるなど福岡市が大きく変貌しようとしていた時期である。

 美術の面からは、福岡市美術館のオープンを1979年に控え、準備室の活動がおこなわれていたころである。全国的に知られた前衛美術集団「九州派」のメンバーが個人活動が多くなるなか、若い世代が意欲的なグループ展を次々と実施していたようである。

 グループ展をおこなうにあたって、テーマ・コンセプトを設定することで、社会に対するメッセージを持とうとした。それに沿って会場を選び、作家に声をかけ、会場の全体構成などもアーティスト相互・あるいは主催したアーティストグループが神経を配っていた。いまで言うところのキュレーター、ディレクター、プロデューサー的な役割をアーティスト自身が引き受けていたわけである。出品アーティストは「出品料」を払う形式であった。
 こういった展覧会形式は、当時、いわゆる団体展と区別し「自主企画展」などと呼ばれていた。

 会場は主に久留米・石橋美術館、それに福岡市美術館の前身的役割を担った福岡アート・ギャラリー(プランニング秀巧社)、市内各地の画廊であったようである。

参考:この時期の、「ゾディアック」の活動については、雑誌 ”d-ART“ に木塚忠広が寄せた文章があるが、多くの資料は作家個々が所有しており、まだ調査が進んでいない。今後、研究が進むと思われる。

■1980-1985年頃:美術館の外へ・萌芽

 川俣正が福岡市美術館・天画廊(天神)・大手門のアパートで同時多発的にインスタレーション(仮設空間構成)作品を発表したのがこの時期である。川俣の手伝いをした福岡の作家たちに大きな影響を与えたようである。

 自主企画展も、美術館やギャラリーの外へ出てゆこうという動きが顕著となった。作品形態がパフォーマンス、インスタレーションなど、従来の「絵画・彫刻」と分類することが難しいタイプが増え、既成空間には展示しづらくなったという要因もあった。実験映画と現代美術の間が接近し(後述)、ビデオインスタレーションなどの発表、コピーマシンを使った作風なども増えてきた時代である。

■1985-1990年頃:商業施設とアート

 1985年に福岡県立美術館がリニューアルオープンし、その初回展は現代美術の要素が大きいものであった。この時期、1980年代半ばから90年前後にかけ、福岡市天神地区に新しい商業施設が毎年のように建ついわゆるバブル期を迎える。それにあわせ、都市とアートというキーワードが多用されるようになる。

 商業施設は、館内に「多目的スペース」を持ち、地元若手作家による企画を積極的におこない始めた。

 89年には「スポーツセンター」跡地に「ソラリアプラザ」、「てんじんファイブ」跡地に「イムズ」がオープン、天神の印象が大きく変貌した。特にイムズは地元の芸術諸ジャンルに関わる企画を一過性でなく実施することで、その後の福岡の演劇やアートに大きな影響を与えた。

 89年、博多駅近くのホテル跡を利用しておこなった「GAS」展は、商業デザインのクリエイターと現代美術のアーティストがコラボレーションした展覧会であり、翌年から始まった「ミュージアムシティ天神」につながっていった。

 また、福岡と他の地方都市による交流も盛んとなり、九州内だけでなく札幌・群馬・関西・名古屋などとも作家・作品・情報の行き来があり、「アーティスト・ネットワーク」などがキーワードとなっていた。インターネットのない時代、東京を経由しない地方同士のコミュニケーションはなかなか難しいものがあったが、いまでいう国内型のアーティストインレジデンスのような状態が発生していた。
 
■1990-1995年頃:国際化

 1994年、のちに「福岡ミラクル」と誰かが名付けた大きなアートエポックが訪れる。福岡市美術館で継続してきた「アジア展」が第4回を迎え、本格的なアーティストインレジデンスをおこなった。同時期、街を会場とした隔年開催展「ミュージアム・シティ・天神」も3回目となり、会場を天神地区だけでなく郊外・能古島などへ広げた。また、福岡県立美術館では地元現代美術の実力派作家によるグループ展を開催し、福岡の町中にアーティストがうろうろいし、全国からアート関係者がやってくるという活況を呈した。ゲリラ的な「博多少年アート」も同じ時期の中洲界隈で実施され、正に街中がアートだらけとなった。1994年秋に福岡で過ごした作家たちは、その後世界各地で活躍を続けている。

 こういった活況は、アーティストと公立美術館・行政・民間団体・企業などの協力関係が比較的スムーズであったことによる。それは「アート」に対する期待感であったのかもしれない。

 福岡市美術館の積極的なアジア作家紹介企画、日本で初めて中国現代美術を紹介した「中国前衛美術家展【非常口】」(1991)など、アジアのパワーが福岡に与えた影響も大きい。

 この時期、アートを語るキーワードは、パブリックアート、ワークショップ、企業メセナなどであった。アートが社会とつながってゆくという視点が、明らかになり、アート支援のための様々なシステムが生まれ始めた。

■1995-2000年頃:「社会とアート」の流れすすむ

 インターネットの普及とともに、国内の地方都市情報のみならず、海外情報も容易に入ってくるようになった。また国際的大型展が世界各地でおこなわれ、現代美術の消費が進む。全国各地でアートセンター、アーティストインレジデンスなども行われるようになった。と、同時に各地域の個性が見えにくくなってきた時代といえるかもしれない。NPO法制定により、芸術家支援のためにアートNPOなども増加し、まちづくりや再開発とアートの関係が増えてくる。

 福岡では1999年に福岡アジア美術館が開館、福岡アジア美術トリエンナーレが始まり、福岡市文化芸術振興財団が活動を開始。

■2000-2005年頃:アーティスト相互の動き

 アーティストたちが自分たちのスペースを運営する「アーティスト・ラン・スペース」が全国的にも増加、福岡でも若手作家たちによるスペースが増えてきた。

 公的支援制度も徐々に現場に即したものへと変貌してきつつある。
 アート業界と他ジャンル融合の動きは、その時代ごとに変遷はあるが、最近の福岡周辺では、改めて音楽ジャンルとの関係が深まっているようである。

参考■1980年代前半、福岡実験映画と現代美術

福岡の1980年代前半は、全国的にも実験映画のメッカといわれるほど多くの上映会・映像企画が行われていた。

中心になったのは、数多くの実験映画作品をつくった九州芸術工科大学(現・九州大学芸術工学院)の松本俊夫とその門下生、民間運営で実験映画企画をおこない続けた「フィルム・メーカーズ・フィールド(FMF)」、それにしばしば上映会場となっていた福岡市美術館であり、この三つの組織により実験映画ゴールデントライアングルとも呼ばれていた。

FMFの上映会は、前衛映画の歴史的なものから、プロアマ問わずアンデパンダン形式で参加できる3分間8ミリ映画フェスティバル(パーソナル・フォーカス)、新進映像作家の新作企画など、幅広いものであった。ジョナス・メカスも福岡にやってくるなど、国際的にも広がりを持ち始めていた。

この時期、参加作家の層は広く厚く、現代美術作家による映像作品も数多く作られ、特に上記「パーソナル・フォーカス」にはたくさんの美術家が参加している。

ホームビデオの隆盛、コンピューターグラフィックの台頭により、映像の世界は今やアート表現に欠かせないものとなっているが、映像そのものへの作家の関与はむしろ当時のほうが繊細であったようにも思える。

※1970-80年代にかけ、当時熱心にアメリカ文化を紹介していた「福岡アメリカン・センター」が地元作家に及ぼした影響は多大なるものがある。映像関連でも、同センターが積極的に実験映画上映会をおこない、新しい表現の窓口となっていた。

文責・宮本初音(福岡アートヒストリー研究会)